川崎の地名

初の「サラリーマン住宅街」①

2011年11月1日

●「労働者」の町として発展した川崎市
大正14年、誕生した川崎市は、門前町の大師町・駅近辺の川崎町と行幸
町で形成されたが、ほとんどが農作民で、それに新しくできた臨海部工業
の労働者が急増しつつあるという状態だった。まちづくりも農村と
労働者むけの借家ばかりが散在していた。
●「サラリーマン住宅街」が出現
それが、昭和10年代なかばの状況だった。労働者の持ち家は極めてすく
なく、それはメインストリートに面する商店の家だけだった。また、家が
軒を連ねる長屋形式は借家の場合がほとんどだった。その川崎の畠の真ん
中に、“同潤会”の「サラリーマン住宅街」が出現したのだ。
●“同潤会”という名の近代的住宅建設財団が
時は、日中戦争が長期化し、日本鋼管など臨海部企業も軍需生産で拡張し
労働者の需要も増え、労働者の町川崎も拡張していく昭和15年(紀元二
千六百年。当時の呼称)ころのことであった。“同潤会”とは、大震災後に
対応し東京・横浜でアパートを建てている財団だった。
●畑ばかりの辺鄙なところに何故?
“同潤会”のアパートはコンクリート中層で一等地に建てられモダンのシ
ンボルだった。そこが川崎の野中に、なんと「木造平屋」の住宅街をつく
るというのである。そこは「大島4丁目」。表通りの新川通りから外れ人
家はちらほらというところだった。そこで川崎市は大騒ぎ・・・。
2011.11.1/今井克樹