川崎の地名

初の「サラリーマン住宅街」②

2011年12月1日

●そのころ川崎の住居は“借家”ばかりだった
昭和の前期,言い換えると戦前・戦中期の川崎の住宅は,ほとんどが「借
家」か「間貸しアパート」だった。そこに急増した臨海部産業の労働者が
住んでいた。持ち家は,家主の家か主要道路に面した商家が主なものだっ
た。借家の家賃は,月末に家主の家族の誰かが取りに歩いたものだった。
●突然に「碁盤目」の住宅街が現れた
日米開戦の直前.大島4丁目にある向小学校の門前から始まって200メ
ートル北方まで,碁盤目の通路を画して100軒を越える平屋建て家屋が
軒を連ねる住宅街ができた。「碁盤目の街路をもつ住宅街」などというも
はこれまで、川崎にはなかった。
●モダン風の“サラリーマンのわが家”
この住宅街のために急いで小学校(向小学校)が開校。その学校に隣接の
ところは庭がある高級住宅風のもので、次第に小規模の住宅になっていっ
た。それでも"我が家”、それも「モダン」なような気分が新鮮なものだ
った。しかもその町の一角に「市場(いちば)」が開設したのだ。
●はじめて「マーケット」も
これは川崎のまちで始めての「マーケット」のようだ。この町を貫く「さ
つき橋」からの臨海部への大道と港町から追分を抜け鶴見に至る大道が交
差して建設に入った。隣接地に「捕虜収容所」もでき.戦後「市立川崎高
校」が開設。戦中から戦後へ10年間.変転のまちづくりの物語。
2011.12.1/今井克樹