川崎の地名

「二ヶ領用水」四百年 —-「新川堀」栄枯②

2010年7月1日

○田島地域の行き先を決めた「新川堀」
田島地域の行き先を決めた「新川堀」
大正13年誕生した「川崎市」だが参加したのは武蔵国橘樹郡のうち川崎
町・御幸村・大師町だけで、折角造成した臨海工業地帯を含む田島町(大
島・渡田・小田村など)は川崎市に入るのを拒否した。どちらかというと
横浜市に魅力をもっていた。ところが工業用水として二ヶ領(新川)用
水が必要だった。川崎市は「二ヶ領用水を使わせないぞ」と脅かした。

○メインストリート「新川堀道」
田島村は昭和2年に降参して川崎市に入った。まさに二ヶ領(新川)用水
が大島・渡田・小田と臨海埋立工業地帯の行き先を左右したのだ。その新
川堀の堤は、臨海工場へのメインストリートで、川崎駅から人力車や自転
車も走った。小土呂橋・新川橋・皐月橋・八幡橋などが新築された。

○故郷への思い「追分」
新川堀がもっとも輝いでた半世紀が始まった。途中から別れて日本鋼管へ
の道ができる。川崎で始めての新建設道路・鋼管通りである。昭和の初め
恐慌・農村不況で若者が臨海工業に職を求めでた殺到した。その故郷への
思いが新川堀道と鋼管通との分岐点を「追分」と名付けたのだろうか。

○舗装道路「新川通」の誕生
メインストリート新川堀道が改築されたのは「満州事変」が始まる前で,
堀は地下水道になり舗装道路「新川通」ができた。新川堀の「橋」もなく
なり既に走っていた「臨港バス」のバス停名としその名を残した。そのこ
ろ建設された「新東海道」と新川通との交差点も「新川橋」と名乗った。
                                                         今井克樹